丘のくるみへ
平出 隆(詩人・多摩美術大学教授)
若林奮が鑓水の丘をのぼってくるとき、この人ほど斜面や窪地が似つかわしい人を知らない、と思ったものだ。
こちらから下りていきます、といっても聞かず、いえ、ぼくのほうから行きます、といつもきっぱりといって、校内の電話を切った。
姿が見えるまでのあいだ、杖を手にし、傾斜地にとりついてなにかを測りながら近づいてくるその姿を、私はしばし思い描いたものだった。
それは、若林奮の彫刻においても、ドローイングにおいても、版画や小さな手遊びにおいても、常に行なわれてきた本能の営みのような測量であり、見えない地点への接近であり、その刻々に変化する空間の重要性についての、記録を逸れていく記録だった。
いま、その人はいないが、くるみの樹は残った。鑓水の丘をくだりたまえ。いま、彼のアトリエの入っていた鉄筋コンクリート校舎前の土の余白に、小さなくるみの樹が移し植えられている。こんどは私たちが、その樹を訪ねていく番であろう。
[展覧会内容]
1999年より2003年までの多摩美術大学在職中に描かれた約260点の未発表ドローイングを中心に、同時代の彫刻も交えた展示。また胡桃の幼木の記録を銅版に刻み込んだ作品群は展覧会タイトルの由来となった。
現代日本彫刻界における最も重要な作家の、最期まで失うことのなかった自然や事物の存在への問いかけや、真摯な制作の姿と静かに交感できる充実の展覧会。
[関連イベント]
■講演会「消えたタイトル」
講師 酒井忠康(世田谷美術館館長)
日時 9月11日(日)14:00-15:00
■対談「いくつもの川を越えて」
講師 市川政憲(愛知県美術館館長)
小泉俊己(多摩美術大学助教授)
日時 10月8日(土)14:00-15:00