福沢一郎(1898-1992)は群馬県北甘楽郡富岡町(現在の富岡市)に生まれました。
1918年(大正7年)旧制第二高等学校を卒業した後、東京帝国大学(現在の東京大学)文学部に進学し、間もなく帝展の中心作家として活躍していた彫刻家朝倉文夫に入門します。そして1922年(大正11年)の第4回帝展には「酔漢」が入選。精力的な活動を見せていましたが、翌年の関東大震災を機にフランス留学を思い立ち1924年(大正13年)5月31日にはパリへ到着しました。
そこはまさにエコール・ド・パリ。藤田嗣治はすでに画壇の寵児となって活躍し、その後密接なつながりを築き日本の美術界を共にリードすることになる里見勝蔵、高畠達四郎、中山巍、佐伯祐三、森口多里がすでに意欲的な行動を見せていました。
当時、記念すべき第1回の印象派展(1874年)から丁度半世紀を経たパリには新しい芸術が次々と展開しており、福沢の渡仏直後である1924年(大正13年)9月にはアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表。その潮流が頂点に達していたのです。
パリ到着後は状況が整うと当然ながら彫刻へ意欲を向けましたが、次第に絵画へ気持が傾くようになり、サロン・ドートンヌ展への出品、1930年協会展への参加、第16回二科展や第1回独立美術協会展の特別陳列など精力的に創作活動を展開しました。
1931年(昭和6年)6月の帰国後は、1939年(昭和14年)に新たな拠点として美術文化協会を結成。そして、旺盛な活動の最中であった1941年(昭和16年)4月5日に治安維持法違反の疑いにより10月10日まで6ヶ月間逮捕拘束されます。
しかし、戦後はすぐに持ち前の行動力を軌道に乗せ盛んな活動と創作を国内外に示し続け、常に美術界のリーダーとして活躍しました。
また、多摩美術大学や女子美術大学では長期に亘って学生を指導し、教育者としても大きな足跡を残しています。
本展では福沢一郎が最も激動の時を過ごしたパリ時代から戦後に注目しました。その時期に福沢一郎が独自に育んだ眼と芸術を検証いたします。
[関連事業]
■講演会
講師 伊藤佳之 (群馬県立館林美術館学芸員)
日程 1月12日(土)
時間 14:00-
会場 多目的室
参加無料 当日受付
■ギャラリートーク
日程 会期中の土曜日
時間 14:00-